私の青年時代

私の学生時代 その4

「PDCA」という概念をご存知ですか? Pとはプラン=計画、Dとはドゥ=実行、Cとはチェック=点検、そしてAはアクション=改善につなげて、ステップアップしていくという「品質改善」のサイクルを概念化したものと言われています。

計画を立てて実践し、厳しくチェックして再度チャレンジ――。これを繰り返して改善を図っていくわけですが、私は大阪芸術大学第三文明研究会在籍時代に、この訓練を嫌というほど受けてきました。

春の五月祭と秋の芸大祭。この2大イベントの大成功を勝ち取るため、毎年2回合宿を敢行して徹底した「勝利からの逆算」のPDCA特訓がおこなわれたのです。それはホンマに過酷な訓練でした。今も時どき思い出します。

まずは、イベントの「テーマ」を決めます。社会情勢、国際情勢、若者の意識動向、未来への予測などなど、あらゆる角度から現状を分析してディスカッション。思いつきや出まかせは許されません。学年の上下を問わず徹底して理論が掘り下げられ、熱い議論が展開されるのです。

続いて、テーマにそった企画が具体的に論じられます。まさに侃々諤々、団論風発。深夜の2時を超える頃からは、頭も真っ白になる朦朧状態になる修羅場もしばしばでした。みんな、限界を超えなければ良いものにならないという、一種の信念があったから踏ん張れたのでしょうね。

メンバーの分担と責任者が決定したあと、各部門でタイムスケジュールが煮詰められ、あとは一瀉千里の怒涛の闘争が開始されます。泣き言は一切通用しません。出来ない理由を並べたてる暇があれば、不可能を可能にするために全知全能を傾け、出来るまで繰り返すのです。スパルタ、という言葉がぴったり。

おかげで、私が在籍した4年間のイベントは、過去最高を毎回更新する大成功を繰り返すことができました。うれしかったなぁ。打ち上げコンパの激しさ、物凄さはご想像の通りです。ハチャメチャでした。いずれにしても、社会人になってからも、この訓練は本当に役に立ちました。先輩方には感謝の2文字しかありません。

昭和59年(1984)9月に、阪神甲子園球場で「世界平和文化祭」が開催されたとき、私たち芸大生にスタッフとして声がかかりました。その時にも上記の訓練が生きて、国籍を超えて平和を希求する文化の祭典の大成功に、大いに貢献させていただきました。6月の立ち上げ時から水面下の企画立案に携わることができ、主要スタッフの一員として休みなしの4ヶ月を完全燃焼。私にとって最高の財産です。

他の学生よりもかなり遅い就職活動を始めたのが、10月1日。悪戦苦闘の連続で紆余曲折あったのですが、山椒は小粒でもぴりりと辛い、新興のコンピュータソフト会社に入社できました。寄らば大樹の安定性をもとめるのではなく、時代の最先端を行く企業で自分の力を試したいという、ある意味傲慢とも言える希望が果たせた瞬間でした。

でも、良いことばかりではありません。あいかわらず小説家の夢を捨てきれない、ふらふらした自分があったのも事実です。何百冊も本を読み、人と会い、バイトやサークルに励みながら、恋愛や友情に歯をくいしばってぶつかり、若者らしく一喜一憂してきました。

「小説家になりたい」とエラそうにほざいていたものの、1年以上1枚も書けないスランプもありました。ようやく書き上げた作品が無残に落選する挫折も、幾度となく繰り返しました。梅田や難波の歓楽街をほっつき歩き、苦労して稼いだバイト料を散財して、あとで途方に暮れたアホもしてきました。

ただ言えるのは、たった1度の、かけがえのいない人生という舞台で、必死のぱっちで「人生劇場」を演じてきたことだけは間違いありません。その点は、まったく悔いのない青春だったなぁと、感謝しています。

昭和60年(1985)3月に大阪芸術大学を卒業し、私は株式会社コムアソートに入社しました。まさにバブル景気の直前。シビアな「なにわのあきんど」に先端のコンピュータを売り込むビジネス戦士としての新出発です。

緑豊かな富田林のアパートから近鉄電車と地下鉄に揺られ、大阪市中央区本町というビジネス街のど真ん中に通勤する日々が始まりました。この不定期シリーズ、次回からは「社会人編」となります。どうぞ気長にお待ち下さいね。

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